患者への目線と患者の苦悩

昨日今日と、暖かでしたね。
春を感じます。
病院の帰りの車中は暑いくらいでした。
ついこの間まであんなに寒かったのにな。
もうすぐ三月だもんな…。
早いもんです。今年のカレンダー、三枚目をめくろうとしているなんて…。
去年の今頃は、長男の卒業、娘の卒園をひかえ、何かとバタバタしていました。あっという間の一年だったような気がするけど、いろんなことがあり、一年前のことなのに、もっともっと昔のことのような気もする。
さて。
今日は治療日でした。
ハーセプチンに加え、月一のゾメタにゾラデックス。そして採血も。
白血球、下限値より低い。CKは相変わらず高め。どうしてなのかは不明のまま。
主治医曰く、「まぁ、問題ないょ。」
然しながら…。
今日もまた淡々と…。
最近、怠い。と言うと、「ホルモン剤の副作用が出てるのかも知れんね」
左の骨盤に違和感がある。と言うと、「骨シンチはいつしたとかね?放射線はいつ頃した?何回?何グレイを?」で、質問に全て答えると、「う〜ん…まぁ、もうちょっとこのまま様子見てみましょう。痛み止めいる時は言って下さい。で、タスオミンはどげんね?体重は?カアッとなったりはせんね?」質問攻めで、カルテに記入。まぁ、サバサバしておられるのはいいけれども、カルテとパソコンの往復というのはどうかと思う。
この感じ…。何かに似てる。あぁ、あれだ。
交通違反で捕まって、警官に質問責めにされて、逐一書き留められているような…。
がんの治療って、手術して、放射線して、化学療法して、効かなくなったら薬を変えて、それでもダメなら治験をして…いよいよ何も出来なくなったらホスピスへどうぞ。
でいいのだろうか?がん友と話してても感じるが、患者は皆、主治医と共に歩んでると思っている。自分のいのちを共にしていると。
大学病院の外来なんて、それは忙しいであろうことくらい理解しているつもりだ。
でも、せめて、患者の顔をちゃんと見て、目を合わせて言葉を交わす、というあたりまえのようなことを求めたい私はいけないのだろうか?


いのちのことなのだ。
いのちをかけての闘いに挑んでいるのだ。



私は言わばいのちがそう長くなくなってしまうのか?それとも、出来るだけ長く、せめて子どもたちがもう少し成人するまで何とか生き抜けられるのか?のどちらかを強いられてるようなものだ。
私は私の人生最大の難関をこの人に任せ、
共に歩んで行けるのだろうか。
今のままではそれは愚問だ。
どんなことにでも言えることだけど…。


他力本願はいけない。


変わらねばならないのは実は私のほうなのかも。
いつもそう省みるように心がけてはいるつもりだ。
まだ始まったばかり…。
どうにか築いて行かなくちゃ。
信頼関係…。
ただ、ゆっくりしている暇はない。


がんになって五年七ヶ月…。
ここまで来て、いちばん難関な、しかもいちばん大切な、避けては通れない事にぶつかろうとは…。
上手ぁく避けて通るのか?
ほぅら、ぶつかったろうが…、と、うだうだ話し合いになるのか?は、私次第。
でも、病状のことだけでも考えると気が狂いそうなのに、これ以上神経擦り減らすのだけはもうごめんだ。


物事は。
嫌だと思うことあらば、自分がそれをしなければいい。
「自分はどう在るべきか」に気づけばいい。
それだけのことだ。

私が変化出来れば、それでいい。



本日の点滴中の私の目線。
窓際だったので幾分安らいだけれど…。



「娘と私の梅の花
4日前は一つしか開いてなかった梅の蕾が一斉に咲き誇っていた…



大木の中に一本だけ…。
何て凛とした姿であろうか…