病から得たもの


一昨日のBlog。
読み返しておりました。なんとまぁ、マイナスオーラの滲み出ていることか…。
いかんいかん。
人間、やはり、冷静に、落ち着いて省みることがいかに大切なことなのか、自分自身を客観的に見てみてもわかります。
いかなることが起きても、取り乱して喚き散らしたり、当たり散らしたり、誰かを責めたりせず、静かに自分を見つめ直したいものです。
私もまだまだ…。日々修行です。
病んでから六年近く。
考えてみれば、今、私が大切なことを解りたいと思っていることや、いろんなことを感じていられることは、病んだが故なのかも知れません。



「いのちには生まれたとにきに ただ一つだけ決まっていることがあります。それは、いつか必ず死ぬ ということです。」
内田美智子先生のことば。



病まなかったら、いつか自分にも100%起こりうる死について、深く考えることも無かっただろう。
「今ここに在る」ことが、どういうことなのか。
生きていること…それ自体が奇跡だということ。
150億年の宇宙の歴史の中では人の一生なんて、点ほどもないのだろう。
その見えない点の中で、今、ここにいるあなたと出会えたということ。
あなたはわたしで、わたしはあなただということ。



ひとつひとつの小さなことに立ち止まることも無かったかも知れない。

「死生観を持って生きる」

ずっと考えて来たことだし、これからも考え続ける。



私は一日の終わりに必ず、読書をしています。長い時間は読めません。でもそれで良いのです。短い時間でも、そこには必ずや得られることが書いてあるのです。
今夜は尊敬する、生命科学者、柳澤 桂子先生の一節が白羽の矢の如く突き刺さりました。



「生命の歴史は死の歴史です。
宇宙のものごとは、直線でなく、円環をなしています。無限小は無限大に通じている。
人の心は空になることはありません。一つを捨てると、必ずそれに代わるものが満ちてきます。
自我を捨てれば愛が、愛を捨てれば憎しみが、執着を捨てれば活力があふれて来る。苦しみの極みに立つことさえも、希望への道を開くことにもなり得るのです。
すべての執着から切り離されているために、先を思いわずらうことがなく、今という瞬間にすべてを燃やすことができる。
生きがいを求めてあくせくすることなく、あふれるエネルギーを身にまかせて、喜びに満ちて行動するときに、おのずからその人の足跡が残されていく。
癒された生とは、このような生である、と私は考えます。」



はぁ………
修行ぢゃ………まだまだ………


「おぬし、まだまだじゃの。」
「も、申し訳ござりませぬ、精進いたします。どうかお赦しを…」(遠山の金さん風)

…うだうだ言う間にはよ寝らんかい!
ハイ………。


とりあえずは。
今日も無事、一日を完了できました。
そのことに感謝します。