お母さんで在りたい


今日は治療日でしたが、昨日に変更してもらい、朝からほぼ一日中、娘の学校にいました。
というのも、この体調で、あろうことか本年度の学年委員になったのだ。娘たち二年生の親子レクリエーションの話し合い。午後は全学年の委員の集まり、引き続き授業参観と…。話し合いなので別に動き回ってた訳でもないのに、何だかどーんと疲れてしまった。参観の後、更にPTA総会があったのだけど、次男のお迎えがあるので、それにはどうしても出席出来ず…。
うちは長男と娘は六つはなれてるので、二人合わせると親は12年間同じ小学校に通うことになる。
私は長男が今の娘と同じ、二年生の時に病気が発覚し、それ以来ずっと闘病が続いているので、役員には一度もなっていなかった。現在、抗がん剤はストップしてるから、体調的にはマシかな…私も先生や母らや子どもたちと共に過ごしたい…と思っているのだけど。やはり次男のお迎え、夕方にかけての会には出られない。に加え、体調や治療日…。
はぁ…。なかなか難しい。段取りが。
でも…。
今日は本当に、心の底から思いました。



健康なお母さんになりたい



そうか…
私、健康なお母さんと同じように、普通に…そうだな…何て言ったらいいんだろ…病気のことやら何やらそんな中でじゃなく、元気で明るいお母さんでいたかったんだ。
でも私は病んでから今まで、「…こうだったらなぁ…」という思いの中で生きて来た訳ではない。人生において「こうだったら…」「こうしていれば…」は通用しないからだ。でも、今日はつくづく感じた。
「何より大切なのはやっぱり健康だ」って。
子どもたちが成長していく中での様々なイベント。それらを元気いっぱい過ごせるのって普通なことで普段はなーんにも考えないのでしょうけど。それって、実はすごい事なんですね。病んでみてわかりました。
朝、起きてご飯やお弁当作り、家族が仕事や学校に行くのを笑顔で送り出し、掃除に洗濯、その他もろもろ…いろんないろんな様々な雑用に追われ。で、夕方あったかな晩ごはんでみんなを待つ。年間をとおしての様々な学校行事。うちの場合、三人、それぞれ学校が違うので、×3 だ。
病気が発覚したのが六年前。はぁぁぁ…六年……。
私はこの六年間、パワフルに動き回って来た。あの廃人になりそうなほどの苦しさの化学療法中でも、一日たりとも寝込んだ事はない。学校行事などもいつもと変わらず参加していた。母らや子どもたちの目線が気にならなかったと言えば嘘になる。でも、闘病中だから出来ないこと、諦めなければならないことがあるとしたら、子どもたちのことに関してはそれはNGです。それだけは例え闘病にさえも譲れなかった。
髪の毛全部抜けてつるっぱげになろうが100kgの鉛を背負ってインフルエンザに罹って船酔いしたようなきつさであろうが、はぁぁぁ………↓↓↓という気持ちの中でも、「でも、これが今の私やん!」全てを受けとめて来た。
私は子どもたちのお母さんでいたかったのだ。
お母さんはいつも元気でそこにいる。
たまに叱る時もあるけど、すぐにけろっとして笑ってる。
今日の参観日、ママ来るかな?
ママ、明日の遠足のお弁当楽しみ〜!
ママ、今日の晩ごはん何〜?
ママ、うちの洗濯物、凄くいい匂いがするね〜!
ママ、転んだー(泣)絆創膏貼ってー
ねぇ、今日友達が六人泊まりに来るけん。
ママ、ママ、ママ、ママ、ママ〜!


子どもたちの声に応えることが出来る。
普通のお母さんでいることが出来る。
春、夏、秋、冬、いつもの一日を生きることが出来る。



これ以上の幸せって他にあるとしたら、いったいどんなものなんでしょうね?



もっと究極。
「美味しいね〜」とごはんをいただき、
「あースッキリした〜」と排泄する。
すごいではないですか!!!
これぞ生きてる証ですよ!



病気と共に生きることは。
医師との確固たる信頼関係のもと、納得の行く治療法を選択し、自分が、出来るだけ病気になる前の自分と同じような日常を過ごせること。
私の中での「理想的な闘病」とはすなわちこういうことだ。



私が妻であり、母であり、自分自身で在ることが出来ること。
今、いろんなことが、しんどい…と感じる時があり、気付けば眉間に皺がよってる時が度々だ。
今まで突っ走って来たようには出来なくなっている。
やっぱり人間は諦めなければならないこともいろいろあるのですね…。生きるためには。
情けない言い方ですが…
細くでもいいから、長〜〜〜く生きたい。
今、心からそう思います。