現実と仮想

今日も病院…。
週一の治療日です。
骨シンチの結果が気になるところですが、主治医が学会で留守の為、来週聞くことになってます。
でも、今は落ち着いています。
だって、どんなに心配したところで結果はもう出てるんだし。
考えてもどうなるものでもないし。
今日はハーセプチン点滴のみですが、投与時間を一時間に戻しました。
先日の循環器科のドクターとの話で、30分というのも何かしら関係あるのかもしれませんね(心のう水の)という話もちらりと出たので…。
安全性が確立したといえども、やはり自分に合った治療法を模索すべきだと思います。



ところで。
今日は、ちょっと興奮状態にあります。
実は今、以前読んだ茂木健一郎氏の「脳と仮想」を読み直していまして…
初めて読んだ時の膝打ちまくりが蘇って来たのです。
今、読み返した中にはおおまかに言うと、次のような事が書かれていた。


宇宙の中の森羅万象は、その客観的なふるまいにおいて、数字に直すことが出来る。全てを方程式で表す事が出来る。それが科学的世界観というものだ。
しかし、方程式で書けるような科学の方法は、私たち人間の主観的体験の問題に対しては何の本質的洞察も提供しない。
今、ある人の(例えば私の)脳の活動が方程式で書けて、その様子を巨大なコンピュータでシュミレーションすることが出来たとして…
では、シュミレートされた脳の持ち主(私)は、喜んでいるのか悲しんでいるのか。何を見ているのか聴いているのか。数学のことを考えているのか、今日の夕食のことを考えているのか。そのような主観的な体験の質は、科学の方法ではわかりはしないのである。



人間の経験のうち、計量出来ないものを現代の脳科学では「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。…中略…およそ意識の中で「あるもの」と他のものと区別されて把握されるものは、全てクオリアである。
赤い色の感覚。水の冷たさの感じ。そこはかとない不安。たおやかな予感。私たちの心の中には、数量化することのできない、微妙で切実なクオリアが満ちている。



つまり、主観的体験を抜きにした科学などあり得ないのだ。
そう考えた時、(これはあくまでも私だけの考えですが)これは現代医療にも言えることではないのか?
エビデンスエビデンスの西洋医学と、心を深く見つめる東洋医学
「どこが、どうあるのですか?、痛いですか?いつから?」と聴かれても、どのように答えてよいのやらよくわからない時がある。でも、何かが変なのだ。どこかがいつもと違う。そして自分がそう感じた時は大体当たる。
とくに、がんに至っては、もともと自分自身の細胞故に、いきなり急激な変化が起こる訳ではない。いつもより疲れが取れなかったり、口内炎が長引いたり…生あくびや怠さ。
後になって考えてみればいろいろあった。このような、これと言って見逃してしまうような症状も、長く取れないようなら、一応、がんのことも念頭に置いておくべきだ。


しかし悪い方ばかりではない。
自分がこうだと感じ、スイッチをONにさえすれば、気持ちひとつでどんどん良くなる時がある。
脳と心と身体はどんな関係にあるのかな…




私たちの心は「今ここ」の限定を超えることができる。
私たちの心的現象は「今ここ」という時間的、空間的限定を超えて、無限の仮想空間の中に遊ぶことができる。



ちょっと…!
わくわくして来ましたょ!
幼い頃から消えることの無い私のあの空想癖は、つまりこういうことだったのか…




今………。
出来ないこともいろいろ出て来て…
そんな中でも「今、出来ることをやればいい」と自分に言いきかせて毎日を生きてるのだけど…
心には無限の仮想空間が在るってことですょね!