ものが見え聞こえる時


今日は歯医者の日だったんだけど、キャンセルした。
口内炎酷いし、鼻水も止まらないから。
白血球減ってるからか、全然治らない。咳まで出始めて…
もうぐったり…_| ̄|○



熱が出た時、悪夢にうなされて夜中に目が覚めるとメールが届いていた。
ドリアン妻(自称)からだった。
それが…!ドリアン様の【生きるレッスン】(第一弾は7/20)。
朦朧とした意識が、もう目、釘付け。今の私にはこれまたトランスパーソナル!もう唸りまくりだったので、また「ここ」でも…
ドリアン第二弾、行きます!



「孤独を楽しむ」 明川 哲也


もともとボクらはいたって孤独だ。
それが普通なのであり、孤独こそが存在のおおもとである。
だから、孤独をしみじみと感じる朝や夜があるなら、それはまっとうにものが見え、聞こえている時だ。混濁した生活の中では難しい、垣根を越えた交信が可能な時だとも言える。
何年か前、ボクはよく自転車を漕いでいた。仕事にあぶれ、自信も失い、消え入りたいような気持ちで多摩川の土手を行ったり来たりしていた。
ある日、河原の一面のコスモスがみなこちらを見ていることに気付いた。いや、見ていなかったのかもしれないが、少なくともその囁きを聞いた気になった。

「人間の社会で、今あなたは孤立していますね。でも、私たちは、あなたを嫌いません」
何万という花が風に揺れながら手を振ってくれていた。


「生きていけばいいのですよ」


と言ってくれているようだった。
あの時の気付きを、論理的に語ろうとするとどこか嘘が混じる。
ただ、それはあったのだ。
宗教には帰依していなくとも、ある種の神聖さに打たれた瞬間。
生物の形態を越え、本質として孤独から生まれたものどうしがつながりあった時間だった。


孤独だからこそ、越えられる。
人種を越える。
境目や主義をこえる。
犬や猫や猿の形を、翅やくちばしや脚の有無を越える。
あるいは絶対的支配者である時間さえも越える時がある。
破れたズホンを穿いた十六歳のアルチュール・ランボーが、希望と絶望のない交ぜとなった瞳でこちらをじっと見るのは、ボクが孤独である時だけだ。古典の作者たちがいきいきと蘇り、ほほ笑みかけてくるのは魂が騒がしい時ではない。

すなわち、孤独とはボクらの存在基盤であるとともに、越えていくためのチャンネルである。
愚かな区分けや境目が消滅するのは、誰もが天性として持つ孤独を共有し合えた時だけなのだ。
孤独こそが、力だ。






あぁ………………。全くどうよ…、ドリアン様…。



そうだっだ…。
私はもともと孤独とは大の仲良しだった。幼い頃から独りの時間は大好きだったし、寧ろそれを心底楽しんでいた。しかし、病気になってから感じるこの孤独感は今までに経験したどんな孤独感とも違っていた。
どんなに頑張って生きていても、次々と襲ってくる試練…。
でも、絶望に苛まれても、そのままそこにとどまりはしなかった。
何度も何度も這い上がって来た。
でも、そのようなネガティヴな感情を抑える必要はない。
いいじゃん、泣いたって。
そう言ってくれるもう一人の自分がいた。


「自分を否定しないこと」


このことはがんになって六年のうちに学んだことだ。
そして、


「何があってもあきらめてはいけない」



このことも…。


子どもたち。
そしていつもそばにいてくれる人たち…。



孤独だけど、孤独じゃない。
孤独じゃないけど、孤独。
それでいい。それが生きるということだ。
その中でたくさんの出会いがあり、いろんな、いろんなことを感じる事が出来る。
それこそが究極の幸せなんだろな…。






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