偉大な力はゆっくりと。


昨日、また学校で次男が発熱。
機嫌は良く、食欲もあり。ただ微熱のみ。おかしいなぁ…。
しかし、とにかく明日休まれては困る!(私の通院日だから)なので、今日はお休みさせ、家でゆっくり過ごす。ゆっくりといっても私はゆっくりとは出来ないんだけどね。ちぐから目を離すことは出来ない。
でも大事に至らずよかった…。




そしてそして。ドリアン妻(自称)より。
「生きるレッスン」第三弾!(第一弾7/20・第二弾10/27)
膝打ちまくりが私だけだともったいのうございます。
なのでまたまた「ここ」でも…




「自分を励ます」 明川哲也


年に数えるほどの山登りだが、森や尾根を歩くようになって得たことがある。
それはどんなにしんどい道でも、一歩ずつ大事に歩き続ければ、高みに辿り着けないことはないという経験である。
他人と競争する人生はとうにやめてしまったので、ボクにとっての励ましはこれだけで十分だ。汗をかき、息を切らし、視界の悪いところを手探りで歩いていても、それを何らかの道だと思えるようになってきた。
かつては、誰かの言葉を欲したり、映画や演劇の感動によって自分を蘇生させようとしたこともあった。そうした追求もそれなりに効果があったかもしれないが、しょせんはカンフル剤に過ぎず、長き日々を励ます理屈にはならなかったように思う。
一歩ずつが教えてくれることは、雑草のたぐいにもある。コンクリートを割って出てくる名も知れぬ植物があれば、かがみ込んで見入る。ゆっくりとした弱い力が一歩ずつ堅固なものを破壊する様子。
自然が見せるこの種の力が、無量の励ましの声をかけてくれる。
目に見えない速度というのがいい。雑草の芽吹きも、蕾が花となるところも、一枚の葉の色づきも誰もその瞬間を目撃した者はいない。それぐらいゆっくりだから、誰にも止められない。本当の偉大な力はそういうもので、人に瞬時の刺激を与えるような演出や作意とは対照的だ。
ただ、スポーツの試合では、瞬時の感動をもらうことがある。
でもそれを成し遂げた選手は、そこに至るまでの何千日を、植物の成長速度にも等しい地道な練習に費やしてきた。だから瞬間的な飛翔が可能なのであって、最初からかっこよさばかりを目指す人は、とうていその領域には近付けない。
山をゆっくりと登ること。
植物を育てるおおらかなリズムを感じること。
葉の色づきや、地味な花の中に、宇宙に通じる巨大な仕組みが現れている。
いつ実るのかわからない自分は、その力を信じることでようやく生きていける。






あぁ…
私も名も知れぬ花のように生きなきゃな…。




チサから届いたょ!♡♡♡
ありがとう〜!!!うん!元気出た!





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