「夜と霧」


昼間はまだぽかぽかと暖かいですが…
それでもだんだんと秋も深まりつつありますね。毎日訪れる近くの神社の銀杏の木もふと見上げると、すっかり色付いて……娘は葉っぱ拾いに夢中。私も幼い頃には、毎日のようにここで遊んでたものでした。30年も経つと、神社の中も少し変わりましたが…でも、そのまんまの場所もたくさんあり、幼い頃のことが走馬灯のようによみがえって来ます。それも、さも、昨日のことのように…記憶というのは不思議なものですね。 いつも私が撫でていた石の牛の頭を、今、娘が撫でている……あの頃は、今のことなんて、想像もつかなかったな…
こうして命は受け継がれて行くのでしょうね。


昨日、ポストに西日本新聞社からのお手紙が入ってました。
昨年の五月から今年の二月まで、コラムを連載させていただきました。タイトル「生きてる…」(アーカイヴも残っているので、ご覧下さい
http://qnet.nishinippon.co.jp/medical/series/cat543/index_2.shtml )
その読者の方からのお手紙の転送でした。大変共感出来る内容でしたので、一部を読んでいただきたいと思います。



〜がんと共に生きる〜

〜肌若い頃は自殺を考えたこともありましたが、現在は一日でも長く 生きたいという思いです。家族の為にも頑張らねばと、使命にも似た本能にかられています。 がん患者の場合は特に生き延びることは深刻です。私はまだ末期でありませんが、経過観察中で、時々不安になります。
おりしも「大法輪」三月号に、がんの可能性のあった悟東あすかさんが、「生かせて頂くこれからの人生を有り難く思って生きるようにする」と述べられたことも私にとって指針となっています。 また、よく知られている訓えに「コップの水」というのがあります。コップの水は もう半分しかない と観るより、 まだ半分もある と思うべきだと、あと◯年しかないと思うより、まだあと◯年もある と考えるようにと、西日本新聞「くらし特報、医療」の頁欄の西冨 貴子さんも「がん患者はオプティミスト(楽観的)であることが何より大切、本人、家族、周りの人にとっても」と述べられています。
私は手術をした先生から「再発の心配はない」といわれていますが、ある大学の先生がテレビで「がんは不確実性で、再発しないと診ていたのが何度も裏切られた」と話されていたのを見て、どちらを信用していいのかぐらつきました。
しかし、前途の西冨さんや「コップの水」のように、悲観的にならず篤信者が、「必ず浄土に往生する」と確信するように、手術した先生の言葉を前向きに確信するようにしています。
ナチス強制収容所を生き延びた精神科医フランクルは、「人は失望によって死ぬ、希望によって生きる」と著書に書いています。収容所ではクリスマスから新年にかけて続々と死者が出たそうです。伝染病や栄養状態が悪かったわけでなく、クリスマスになっても解放されなかったという、絶望感によって死んでいき、希望を持ち続けた人は生き残ったということです。
岡野 守也先生著「道元コスモロジー」(大法輪閣)によりますと、道元は一切を肯定したとあります。がんで死ぬことも有り難い。治ることも有り難い。 苦痛も爽快も、がん細胞も免疫細胞も、病気も健康も、全て一体一如で有り難い。全ては仏の顕現であると徹底的に全肯定されているとのことです。
つまり、がんで死ぬのもいい、治って生きるのもいい、ということであるならば、前途のように、悲観的にならず明るい面を確信して歩いていこうと思います〜



どうですか?。これは77歳の男性の方が書かれ、送って下さいました。
フランクルの著書のことが書かれていましたが、これは「夜と霧」のことですね。私もずっと以前、読みました。
人は、どのような状況にあっても、希望を見い出すことが出来る…と私も信じています。そしてそれは、自分で見い出すことだと。
すごいですね…お会いしたこともないけれど、同じ本 を読んで、こうしてどこかで繋がる。 まさに、発信すること…ですね…。