次男のこと 3

「お母さん、ゆうくん、耳が聴こえてないようです。すぐにABR(聴性脳幹反応聴力検査)と脳波の検査をしましょう」
一瞬、何のことかと理解出来ませんでした。周りの世界が全て凍りついた感じ……。



「耳が聴こえない!?」



あの澄んだ目で、私を見、微笑んでくれるというのに。
私の声が、夫や兄や…鳥のさえずりや雨音やこの世に音があるということ自体がわからないというのか。
信じることが出来ませんでした。
聴こえないってどんななんだろうか…
耳栓して歩いてみたり、次男の耳元で、大声で名前を呼んでみたり…。有りとあらゆることをしました。今思えば何て無意味なことに時間を費やしたのかと思いますけれど。
ABRの結果はやはりほとんど聴こえていないというものでした。どれだけの絶望感だったかは今となってはよく覚えていません。
ただ、涙ってこんなに出るんだ…。と思えるほど泣きました。
それからは、一転。
落ち込んでいても、事態が変わる訳でも無し…。障がい者手帳や、補聴器つくりに飛び回り、横リハのST(言語訓練)に通うようになりました。動き回ることで、自分自身を納得させ、事態を受け入れようとしていたのかも知れません。
同時期、人工肛門を閉鎖する根治術もしなければならなくなりました。
一度目の手術は、出生後間もない為、人工肛門を造設するのみ。今回は大腸の神経節細胞のない部分を切除し、神経が残っている部分と肛門とをつなぎ、本来の排便が出来るようにする、というもので、かなりの時間がかかるということでした。
まだ一歳にもなっていないというのに、そんな長い手術に耐えられるのだろうか?
人工肛門のケアは大丈夫です。もう少し成長してからの方がいいのではないでしょうか?」先生のお答えは、
「本来、排便は肛門からするものであり、出来るだけ早く戻してあげたほうがいいんですよ。もう体重も充分ありますし。それに、術後の痛みも、成長してからより今のほうが感じないんですよ。」
そうして平成12年8月28日、人工肛門閉鎖術と、根治術を同時に受けました。
朝の8時くらいからいろんな処置をし、10時半に手術室に入り、出て来たのは夜8時過ぎでした。それまでの人生の中で、一番長い一日でした。
手術は無事成功しましたが、ヒルシュは重症で、横行結腸、下行結腸には神経節細胞が欠如しており、上行結腸しか残すことが出来ませんでした。術後、MRSAに感染したりで、一時は危険な状態でした。
ストーマは閉じましたが、退院してからも風邪や、事ある毎に腸炎を起こし、入退院の日々が続きました。細菌感染した便が、たまり、自分で排泄出来ず、お腹も張って吐いてしまうのです。
昼となく、夜となく、横浜の自宅から世田谷の病院まで連れて行く日々…。
病院で、ブジー(カテーテルを肛門から挿入し、中の便を出してしまうこと)の処置をすると、状態が改善されるのです。……(これは私もブジーが出来るようにならなきゃいかんな…。)思いつかない訳がありません。
先生に相談するも、初めは「これは医療行為なので…」と拒否されました。
「でも、病院に運ぶまでが苦しそうなのです。早く楽にさせてあげたいのでお願いします!」と、引き下がらず……。
なかば無理矢理教えてもらい、医療機器会社から直接ネラトン(ブジーに使うカテーテル)もまとめて購入しました。
果たしてこれは大正解でした!
ネラトンブジーを早く行なうことにより、その後の入院期間も格段と短縮出来るようになったのです。今でも毎日の浣腸と、腸炎の時のブジーは欠かせません。
手術や術後腸炎の繰り返しで、せっかく始めていた補聴器を着けてのSTの訓練にも、なかなかスムーズに通えない日々が続きました。出生当初からつけていた育児ノートはすでに10冊をこえていました。

焦りばかりがつのる……。
そんな中、私は次男の奇妙な仕草が気になっていました。
長男がトミカを集めてたのですが、その遊び方が長男と全く違うのです。自分が真ん中にい、その周りに円を描くように、寸分の狂いもなく、車を並べるのです。何重にも何重にも。そして、ちょっとでも気にくわないとパニックになり、投げ散らかすのでした。
私が抱いても目を合わそうとせず……。
自分の子供なのに、よく解らない…。
ひと言では言えませんが、何となく「違和感」のようなものがあるのです。
手のひらを目の前でひらひらさせ、スプーンを電気や光にかざし、キラキラするのを恍惚の表情で延々と眺めているのでした。
「これは、難聴だけじゃない。他にも何かある……。」
不安が、日を追う毎に確信に変わって行くのでした。 4へ続く…



次男が通っていた国立成育医療センターとそのエントランスホール